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他律神経

人工知能による偶像神の抹殺と近代の完成

ここで論じたいのは、AIが実際に人間の職能を代替し得るかという技術的真偽ではない。また、AIが「真の創造性」を持ち得るかという形而上学的な議論でもない。それらは、もっと賢い人々に任せよう。

​私が考えたいのは、AIという存在を前にして、なぜ特定の層がこれほどまでに感情的なアレルギー反応を示し、それを社会的な「脅威」として喧伝するのかという、その恐怖そのものに対する分析である。

​AIに限らず、技術革新による雇用の代替は、自由経済において常に起きていることだ。かつて、そして今も、例えば工場の自動化が労働者の雇用を奪った際、社会の言説を主導するホワイトカラー層は、それを「生産性の向上」や「産業構造の転換」と呼び、高みから客観的に論じていたではないか。

​にも関わらず、AIという技術革新に対してだけは、かつてない規模の反対論と倫理的議論が渦巻いている。あるいは渦巻いていることになり、上から下まで大騒ぎである。

​では、この差はどこから来るのか。理由は単純である。「騒ぐ能力と手段を持った人々」が当事者になったからに過ぎない。 ブルーカラーの雇用が喪失することに対する市民層の歓喜(あるいは無関心)との対照から、そのように考えざるを得ない。

​特にホワイトカラー層の中でも、自らの領域を魔術化し続けてきた人々、あるいは神を自称する人々、すなわち「クリエイター」という名の特権階級の反応は顕著である。

彼らは「創造」や「オリジナル」といった、かつてであれば神の力を記述するためにのみ認められていたような言葉を用いて、自らの職能を近代において唯一脱魔術化を免れた「神聖な職能」であると強弁してきた。自らを、無から有を生む「クリエイター(創造主)」に擬し、その特権性を享受してきたのである。

昨今のAIを巡る様々な騒動の本質は、その背後にこうした自称神々、偶像神が、自分たちの営みもまた単なる統計と演算の集積に過ぎないと暴かれ、聖域から引きずり下ろされることへの、実存的な恐怖と怒りがあるということだ。そこに、彼らを含むホワイトカラー層一般の現実的な雇用不安が結合し、この巨大な拒絶反応が生み出された。

​しかし、かつて高貴な騎士が名もなき兵士の銃弾に倒れた時、熟練の機織り職人が紡績機にその誇りを粉砕された時、近代市民はそれを「自由への進歩」として喝采してきた。

​他者の職能が機械化されることを「合理化」と歓喜してきたのであれば、自分たちの「神聖さ」が技術によって剥ぎ取られ、ただのデータ処理へと還元される番が来たことにも、等しく歓喜すべきである。

​かつてのエリートが享受した特権的な「魔術」、すなわち「知性」や「創造性」が解体され、あらゆる人間の営みが等価な演算へと変換される。人間的なるものは生産の過程から完全に消え失せる。そんなことが起きるとすれば、それこそ、我々が数百年かけて推し進めてきた「近代」というプロジェクトの、残酷かつ華々しい完成である。

​今の技術の「人工知能」が本当に既述の「魔術」を解き明かすのかは、クリエイター=神ではない私にはわからない。ひょっとすると、神を自称する人々にはわかるかも知れない。彼等はとても賢いということであるから。だが、実際に彼らを代替するか否かに関わらず、その聖域がもはや不可侵ではないと突きつけられたのだから、この時点でこう言ってもよいのだ。

​近代は完成した。これが、お前の望んだ結末だ。

そして、戦争に備えよ。

 

『For the end of world and the last man』(2)(10)(11)(12)朗読(熊代タンク様)

 私の小説の一部を朗読した音声ファイルを貰ったので、以下に掲載します。

 熊代タンク様、ありがとうございました。

 

 

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SNSに確認されるマタイ効果と政治的言説の過激化の関係について

SNSプラットフォームには強力なマタイ効果が存在する。既に注目を集めるアカウントは些細な日常の一端を投稿するだけで大きな反響を得る一方、大多数のユーザーは同様の内容を発信してもほとんど注目されない。この「承認の格差」はアルゴリズムによって強化され、不平等が可視化されるとともに、その可視性が固定化され、強化されていく。持てる者はさらに与えられ、持たざる者は持っているわずかな承認までも見えなくなる世界が形成される。

この承認格差から逃れようとするユーザーは、過激な言説を可視性獲得の手段として利用する。アルゴリズムが反応や対立を促進する性質を逆手に取り、意図的に過激な主張を発信する。デマや極端な意見が「既成秩序への抗議」として機能し、短期間での注目獲得を可能にする。ここに、ラディカルさを競い合う、その言説に何の責任も持たない者たちが蠢くラディカル・マーケットが成立する。

この二つの地獄は独立して存在するのではなく、相互に強化し合う。過激化が進めば進むほど公共空間は荒廃し、穏健な意見はさらに埋没する。結果としてマタイ効果はさらに強化され、格差はより深刻化する。アイドルが「ケーキ美味しかった」と呟いて推し活を加速させると同時に、現世を呪う者たちが過激な言説を吐き続ける。この循環によって、現代の情報空間は本来あるべき公共的な議論の場としての機能を失う。やがてその門を開き、外にまで地獄を拡張するだろう。

戦争に備えよ。

完全なる教育

日本の教育と雇用は、一本の太い論理で貫かれている。企業が公教育に人材育成を期待せず、自前で教育することを前提としている点に、このシステムの根本がある。小学校から大学まで、あらゆる教育段階は、子どもを「企業が教育しやすい状態」に磨き上げる装置として機能する。知識や思考力よりも、従順さと同調性が評価されるのはそのためだ。

企業は若年者を一括採用し、多大なコストをかけて教育する。この投資を回収するためには、長期の雇用関係が不可欠となる。ここから終身雇用制度が必然的に生まれる。しかし企業は、長期の雇用保障というリスクを負う代償として、強力な指揮命令権を要求する。雇用の安定と引き換えに、労働者の広汎な従属を求めるこの暗黙の契約が、日本の雇用関係を特徴づけている。

この論理は教育現場そのものにも浸透している。教員たちは、自分たちが育ったシステムを教育現場で、教育労働者として、そして教師として再生産する。不明瞭な職務範囲と引き換えに雇用の安定を得て、「使命感」という名の自己搾取を当然視する。彼らは企業が求める「なんでもできる人材」像を体現し、その価値観を次世代に伝える役割を果たしている。

こうして、企業内教育を頂点に、小学校から大学までの教育がその準備段階として位置づけられる。教員は教師として、教育労働者として、そのモデルを体現するとともにそのモデル維持を行う。システムは完成した。この完璧なシステムが「改善」されるのは、このシステムが可能なことの限界に到達した後、つまり崩壊した後だけである。または、その改善が、破壊と同様に見える時だけである。

戦争に備えよ。

リベラル化した社会の論理的帰結としての流言の勝利

現代社会におけるデマ拡散の問題は、単なる情報の非対称性を超えた深刻な構造的問題を抱えている。

デマの作成と拡散は常に、その検証や反証よりもはるかに少ない時間と労力で実行される。この非対称性は、人間の認知プロセスが単純で感情に訴える情報を優先し、複雑で紐解きの必要な情報を敬遠する傾向に起因する。

このようなデマの性質にリベラル化した社会における「当事者主権」のインフレーションが組み合わせれば、あとにあるのは世の終わりまで続くデマの勝利である。

社会を批判し変革を求めるための包括的な理論(グランドセオリー)が失われた現代では、人々は自身の「当事者性」、すなわち個人の体験や被害者意識を出発点として社会と対峙するようになった。この傾向は多くの社会運動において一定の成果をもたらしたが、同時に重大な副作用を生んだ。

その副作用とは、「定位すべき当事者」の範囲が無限に拡大し、その主張の核心が検証可能な事実から、検証不能な個人の感情や体験に移行したことである。ここでデマは新たな生命力を得る。たとえ流布されている内容が虚偽であっても、それによって生じた「恐怖」や「被害者意識」という感情そのものは現実であり、否定できないからだ。

この「虚偽の事実」と「真実の感情」の悪魔的融合が、現代のデマ問題をこれほどまでに解決困難にしている。論理と検証だけでは太刀打ちできない領域が生まれ、デマは感情という不死身の鎧をまとう。これが、デマが勝利する時代の根本的なメカニズムなのである。

戦争に備えよ。