他律神経の日記

犬が好きです。

2021年5月18日 問題が解決できない場合は問題を大きくすること

 火曜日、曇り時々雨。労働日、昼から。

 深夜に『バスターの壊れた心』を少し観る。辛くなって途中でやめた。このラミ・マレックは俺だ。俺なんだ。昼から労働。最初の数時間は忙しかったが、その後は特に忙しくはなかった。ただここ数日、体調が悪くてしようがない。もう死ぬのかも知れない。友人とパフェを食べながらもう死ぬのかも知れないと言ったら笑われたことを思い出す。仕事で失敗し、疲れ果てて帰る。夕食中、犬が起きてきて、足に身体を擦りつけてくる。共感性が高い生き物だから、何かを理解したに違いない。

 これを書いている今では、誰も何も言ってこないので大した失敗でもなかったとわかったが、退勤間際かつ休憩に入る間際に、共有のタスク管理用ツールで何一つ完了していないものを完了させてしまい、焦りに焦った。バックアップファイルを見ながら、同じタスクとタスクの詳細に謝罪を書き込み、ツールを主に使用しているチームに電話することになった。大変疲労した。

 ところで、私がそんなことをする数時間前に別の人が客を怒らせて問題になったらしく、中間管理職が再発防止のための調査の真似事みたいなことをしていた。ことを荒立てたくないのか、問題を起こした人への配慮なのか、こそこそとやっていたのが印象的だった。細かなミスは怒られが発生するが、客まで巻き込んでミスをすると、組織全体でどのように再発防止策を取るのかと客に説明しなければならないこともあって、怒られが発生しなくなる。もうそんな次元ではなくなる。

ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』という、『ローマの休日』の中年男性版みたいな見ていて疲労する映画があったが、あれによればチャーチルは日本がアメリカに宣戦布告し、ドイツも宣戦布告したことによって、独英戦争が世界大戦になったことを喜んだらしい。

 問題があまりにも巨大化すれば、解決を求められる主体もまた巨大化し、各人の責任の割合は希薄化するというわけだ。そのテーゼが、この日、証明された。頭の片隅に留めておくこと。