他律神経の日記

犬が好きです。

2021年5月20日 労働後、風呂に入らないでベッドへ入ると死と同衾することになる

 木曜日、雨。「休日」、夜勤明け。

 夜勤明けだがこれが休暇1日分としてカウントされることになっている。本当に非人間的労働をしている。自宅最寄駅にまで戻ってから、喫茶店でカレーを食べる。疲れ果てて、帰宅後即就寝、夜に起きて入浴。完全に仕事を辞めようと思いながら髭を剃ったり、鼻毛カッターを鼻に挿入したり、眉毛を整えたり、体重計の電池を入れ替えたり、部屋のナツメ球を替えたりした。『新感染半島 ファイナル・ステージ』を観る。夜中に見始めたので日を跨いで観終わった。

 起きてから私は、意識して、急いで身支度を整えたり映画を見始めたりしたのだった。私はまだ死にたくなかったのだった。私は何を言っているのか。確かカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』だったと思うが、捕虜収容所で死ぬ人間の兆候というのは、身なりに気を遣わなくなることだそうだ。勿論、捕虜収容所であるから、身なりに気を遣うことなど、我々の水準ではできないのだが、それでも髭を剃るとか、靴を磨くとか、そういうことをするらしい。そして、そういうことをしなくなったら、それが死の兆候であるそうだ。そういったことが面倒になってくると、いよいよベッドから起き上がるのが面倒になり、そして生きるのが面倒になる。また、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』や大岡昇平の『俘虜記』を思い出して欲しいのだが、極限の状況においてこそ、文化的なものが大切になるし、大切にされる。そこでは降霊術のサークルがあり、演劇サークルがあり、そして俳優は大切された。このことはカート・ヴォネガットの言っていることの、別側面だろう。身なりを整えることは文化的な行為だからだ。

 ところで、ライフハックのために収容所文学を引いてくるあたり、私はもう会社を辞めるべきなのだろう。風呂に入らずにベッドに入った私は、死に触れていたのだろう。