他律神経の日記

犬が好きです。

2022年2月26日 文明が自己破壊的衝動性を有していると言われても何も驚くことはない

 土曜日、晴れ。深夜に小説を書く、犬と散歩、部屋を片付ける、友人に会う、語学。

 深夜、少し起きている。本を読む。小説を少し書く。語学とかはこの時間に終えてしまったほうがいい。起きて、部屋を片付ける。幾らでもやることがある。犬と散歩に出る。1時間くらいは歩いた。また片付け。夜、大阪の友人が関東に来たので会いに行く。長野の友人も来ていた。私も含めて全員どうやって生きているのかわからない。カンボジア料理店で食事を摂る。特急電車で帰る。4日ぶりくらいの遠出のせいか、マスクをつけていることにとても違和感があり、行きは疲れた。なんだか顎を締め付けられているような。映画『ソウ』に出てきた頭部を破壊する機械の痛みはきっとこの感覚の延長にある。これから何するのか、決まっていないのかと友人に聞かれる。答えは、勿論、決まっていない。色々やってみたほうがいいという気がする。私の頭の中のノートはそれほど広くない。何であれ、行為を――例えばこうして書くというように、行為を伴っていないと構想すらできない。『何でも見てやろう』。しばらく飢えることはないのに、どうも実験を忌避しているところがある。実験を増やす。人生は実験だ。

 文明とは自らが産み出した問題を解決するためにさらに次の問題を産み出していく運動だ。グーグルニュースのアプリを開いて下までスワイプすると、そのような感想しか出てこない。文明の内部には文明を超える発想はない。どんな超文明論も文明の内部でしか生起しない。もしも希望があるとすれば、殆ど自殺にも似た文明全体の猛烈な自己否定ということになるが、そんな賭けをするほどには人々は飢えていないのだろう。