他律神経の日記

犬が好きです。

2024年1月29日 桐島聡を捕まえたのは北風ではなく太陽だった

 月曜日、晴れ。相変わらずクソ寒い。キレ散らかしている。すべてを破壊する。残業と出張だらけで死にそうだ。はっきり言って疲れ果てている。もう仕事は辞めだ。お前らで勝手に再生産していろ。クソどもめが。書類の体裁が悪いと言って却下された。ブルシット・ジョブだ。

 この日記で言及していた自称・桐島聡が今日、死んだとのことである。間もなく戦後80年になり、我々がセックス上納システムと派閥政治と和式便器のような国立競技場というカードのみで混迷の時代に挑むしかないこの、本月本日を以て、自称・桐島聡は消え失せた。官憲ではなく、時代から、桐島聡は逃げ切ったのである。本月本日の子供らがカラシニコフの使い方を学ぶか、外国に行くか決断を迫られる日のことを思えば、そう言う他にはあるまい。ところで、桐島聡はどのように捕まったのか、ということを考えてみたい。ニュース記事によれば、桐島聡は路上で倒れているところを病院に運ばれたということである。このような事態は何故、可能になったのだろうか? 我々は路上で倒れている人がいる時に病院へ連れて行くという判断ができることの幸福を記憶しておくべきである。間もなく、それは、遠い日の想い出になる。明らかにそこには、国民皆保険制度への期待や、あるいは何らかの行政の介入があるであろうから、医療費などというものは一旦無視して、誰でも病院へ運んで構わないという、現代日本の医療・福祉体制への期待がある。これこそ、実は、長期逃亡生活の最大の障害である。つまり、捕まりさえすれば、その他の普通の市民のように医療的ケアが受けられるという予期が、長期逃亡生活を蝕み、指名手配犯を追い詰める。指名手配犯の困難は指名手配などされていない、普通の市民の生活のクオリティに比例している。普通の市民が良き生活をすることが、何よりも指名手配犯を追い詰め、そして場合によっては、「助ける」という形で指名手配犯を病室に捕らえ、自分の本当の名前の自白させる。しかし、いよいよ桐島聡が決して捕まらないような世界が近づいているのではないか? つまり、路上で人が倒れていても、放置するような世界、金がなければ医療的ケアなど期待しようもない世界が。そしてそのような世界から桐島聡は逃げ切ったのだと、私は言っているのである。私には30000000円は用意できそうにない。