他律神経の日記

犬が好きです。

2024年1月30日 桐島聡が逃亡生活を続けられたのは我々の生活レベルが長期逃亡犯の生活レベルになったから

 火曜日、晴れ。寒すぎて嘔吐しそうだ。朝早いが朝飯を食べているといつも犬が寝床から出てくる。ちなみに帰宅すると迎えにも来てくれる。犬は完璧な生命体だ。最近はいつも服を着せているから朝に「裸」の姿を見ると何か違和感がある。仕事は今日もクソだった。カスみたいな仕事だ。拳銃があったら拳銃があることを確認した瞬間に自分の頭を撃ち抜いている。銃規制の強い国に住んでいて良かった。ブルシット書類を作ってブルシット印刷してブルシット製本した。明日もブルシット詰められや、ブルシット移動、ブルシット呼吸がある。

 結局、桐島聡に関わる最大の問題とは何かと言えば、桐島聡は何故、半世紀の逃亡生活を続けられたのかと言うことであり、そして、自称・桐島聡の証言と証言についての報道を信用するならば、桐島聡はいかなる「組織的支援」も受けていなかったということである。このことは明らかに、長期逃亡犯についての我々の直感に反しており、およそ、犯罪者が組織的支援なしに「普通」に暮らすことなど信じ難いという感情を惹起する。しかし、何らかの方法で「普通」に暮らすことで長期逃亡生活を維持したのではなく、「普通」に暮らすことそのものが長期逃亡生活の条件だとしたらどうだろう? そも、東アジア反日武装戦線は地下闘争継続の教えとして、近隣住民への挨拶、夫婦を装う、朝に家を出て夜帰ることが重要であると『腹腹時計』に書いていたはずである。とはいえ、また、私はここまで「普通」というように鍵括弧で閉じてきたが、「普通」の生活のクオリティが桐島聡の逃亡生活のクオリティへと(落ちることで)近づいたことを見逃すべきではない。桐島聡はリーマン・ショック以降は「努力して」普通の生活を装うまでもなかったのではないか? 例えば我々の中の誰が「組織的支援」など受けているだろうか? 組織的支援などないのが、「普通」である。今や「カイシャ」ですらもが、疑似家族的なコミュニティの外観をかなぐり捨てつつある。我々は今や完全に孤立した個人であり、未婚もさほど珍しくなく、名前を知り、過去を知るほどに深い付き合いのある友もおらず、休日は労働の疲れを癒やすためにエロ漫画を読んだりソーシャルゲームをしている。指名手配犯の手配書を読む暇さえ、もう、我々にはない。桐島聡は時間の経過とともに「普通」の生活を容易く維持することができるようになり、そして官憲と時代とから、逃げ切ったのである。