他律神経の日記

犬が好きです。

2024年1月20日 すべての男は消耗品であると消耗品が言った

 土曜日、曇りのち雨。犬と外に出る予定がなくなった。だいたい犬と寝ていた。ドイツの犬のカイロプラクティック施術動画を見ていた。あとジョジョですね。編集はされているが、それにしても犬は痛みに強く、そして飼い主ではないにせよ、何かプラスのことをしてくれた人間というのが判別できているのがわかるような動画だった。もう仕事を辞めようと思った。この思考に飛躍はないが、そう、思考に飛躍などありえないのだが、他人からは飛躍にしか見えないだろう。昨夜は村上龍の『すべての男は消耗品である。』について、書いていたのだが、下書きが全て消えてしまい、何もやる気がなくなった。別に書評を書こうと思っていたわけではない。何かノートを蓄積していこうかなと思っていただけだ。アウトプットされない思考は意識の毒だからだ。

 私があのエッセイを、ちょうど13巻まで読んで思ったのは、何故こんなにも本文中にエクスキューズが多いのかということだった。リーマン・ショック前後、小泉政権の誕生あたりから、特に増えるような気がする。そしてそれは『すべての男は消耗品である。』というタイトルからの解離とパラレルである。そもそも、このエッセイは恋愛論やセックスについての連載エッセイだったのだが、徐々に、例えば『半島を出よ』や『共生虫』を刊行する頃にさしかかり、段々と政治・経済についての言及が増え、ニュース・コメンタリー・エッセイのようになっていく。そしてエクスキューズが増える。ところで、エクスキューズと私が言っているのは、村上龍が例えば小泉政権の政策について書いたあとで、私は規制緩和論者や新自由主義者ではなく、ただ、(例えば日本経済が低成長になり、徴税して分配できるパイが減っているという)「現実」についてどう考えるかを考えているだけであるといった、政策論争の類に自分はコミットしておらず、ただ問題の所在を明確にしたいだけだという、エッセイ中に繰り返される((Kindle版で『誤解』と検索すると一目瞭然である))説明のことである。私は既にタイトルからの解離とパラレルだと言ったが、タイトルは「すべての男」であり、そこに村上龍自身を含み、そして村上龍は消耗品の一つとして書き、消耗品としてその文章はあった。しかし社会、経済、政治といったものを分析するということになれば、少なくとも、その分析者自身は社会、経済、政治の内部にはいないということにしなくてはならない。そうでなければ、政策論争にコミットするのでなく、問題を明確化するだけだという「客観的」な立場は破綻してしまう。確か福田和也が『共生虫』を説教臭いとか何とか批判していたはずだが、その説教臭さは、恐らくは、社会の外部にあるかのような文体にあるのかも知れない。もちろん、私は「問題を明確にしたいだけ」であり、エッセイに「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」を求めたりはせず、この連載もKindleの合本版で一気に読むほど面白いと思ったが、分析することの生産性がお前は何処から話してんねんの一言で消滅してしまうような、エッセイのような分析が氾濫しているように思えてならないため、村上龍の、小説の後書きに「リュウ」と署名して江藤淳にボロクソに批判され、今度は『共生虫』で江藤淳の弟子の福田和也にボロクソに批判され、そしてカンブリア宮殿で経営者と対談するというキャリアに、物を語ることの困難を確認するだけである。村上龍も、今日の俗流マルクス主義者のように「すべての現象は経済である。」と言えていれば、もう少し楽だったのかも知れない。とはいえ、村上龍は頭が良すぎたのであり、そして何より小説家であった。


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