他律神経の日記

犬が好きです。

2024年1月26日 桐島聡のレプリカ

 金曜日、晴れ。クソ寒い。何回クソ寒いと書いたかわからない。全文検索すればすぐにわかる。時代だよ。会社では計画を立て上司に提出し詰められ計画を修正し、これまで殺した全ての自分の可能性の亡霊がぼやけて見えるようになるまで画面を睨んでいる。俺は会社を辞めるぞジョジョ。しかし俺は会社を所有していない。ところで、退勤すると、友人から桐島聡が捕まったというニュース記事が共有されていた。何でも末期癌患者が俺は桐島聡だと言い始めて桐島聡が捕まったことになったらしい。俺の祖父は胃癌で亡くなったが、彼も死に際に看護師に拉致されて小学校の校庭で処刑されるから退院させてくれという「事実」を話していたし、桐島聡が本当に桐島聡なのかはまだ確定的に明らかではない。確定的に明らかなことなど一つもない。答えなど何処にもない。誰も教えてくれない。帰りに自宅最寄駅の、壁の、かなり床に近いほうに貼ってある手配書を確認したが、桐島聡のニヤケヅラはまだそこにあった。俺は桐島聡に顔が似ていると言って、手配書の横でセルフィーを撮る者たちの画像が旧ツイッターで流れてきた。そう、この、これだ。俺は桐島聡がその犯罪を行った時にはまだ生まれておらず、桐島聡の「凶悪」犯罪について、テレビで見たことすらないため、桐島聡は完全に駅の指名手配犯の手配書の一角に頑なに貼り付いた一つの顔に過ぎなかった。その顔に何のリアリティもなく、こいつ桐島聡っぽいなという感情を、都市で何千という顔を見ているというのに、抱いたことすらなかった。桐島聡の、眼鏡の、前歯を露わにした笑顔は、純粋に手配書の一角を占める画像に過ぎず、俺が物心ついてから今日までの数十年、指名手配犯の精巧なレプリカのようだった。この俺の感覚はそれほど奇異なものではないだろう。だからこそ俺は手配書の桐島聡の顔に似ていると言ってセルフィーを撮る者たちがいたのだろうから。桐島聡自身もそうだったのではないか? そうして末期癌の苦しみの中で、手配書の桐島聡のレプリカにリアリティを与えるために、桐島聡を、すなわち自分自身を捕まえさせたのではないか?

2024年1月25日 オールド・ボーイ読了

 木曜日、晴れ。吐き気がするほど寒い。昔、ボーイスカウトの活動で真冬にキャンプをしたらあまりにも寒すぎて全員がおかしくなり、炒飯に使うつもりの生卵を啜って吐いた人がいたのを思い出した。朝には吐瀉物も雑巾も凍っていた。仕事の話をしてやろうか? 何の意味があるんだよ。意味のない仕事だよ。本社に電話。新卒からまともに働いていそうなまともな女と電話越しに会話した。何を考えてるんだ? という感じのことを言われた。何も考えていない。まともな人間が好きじゃあない。俺は人間じゃない。今日だって昨夜から読んでいた『オールド・ボーイ』の続きを読んでいた。読み終わった。これは、ある戦争の物語だ。それも非常に偏執的な戦争の物語だ。クラウゼヴィッツ戦争論を想起せよ。クラウゼヴィッツ曰く戦争は政治の延長である。しかしまた同時にそれ自体の、敵を消滅させようという、純粋戦争の形態を取ろうとする力がある。もちろん、『オールド・ボーイ』は政治の延長としての、相手の意志を操作しようという戦争を描いた漫画である。だからこれほどまでに進行が奇妙なのだ。そんな戦争は『対テロ戦争』が始まってからは殆ど存在ない。俺達は「絶対の敵」を見つけてしまった。俺達は敵の意志を変えることではなく、敵を殲滅することを目指す戦争しか知らない。

2024年1月24日 俺は純粋に数学的な意味での一つの線だ

 水曜日、晴れ。死ぬほど寒い。寒すぎてキレそう。いや、もう、キレている。仕事には何のエピソードもない。その他にも、あるわけが、ない。家と職場の往復だ。俺はAとBを結ぶ、面積を持たない、純粋な線だ。だから歴史もないし、文化もない。俺にとっては世界は狭くなったのでなく、消滅したのだった。世界のあらゆる悲喜劇がこの線を越えて、何処かへと辿り着き、人を怒らせたり悲しませたり喜ばせたりするが、俺にはなんの関係もない。俺の夢は死ぬことで、そうしたら、恐らく何処へでも行けるし、誰にでも会えるようになるだろう。その時、世界は俺と出会い、俺は運命を知る。俺も怒ったり悲しんだり喜んだりできるようになる。魂はある空間を占めているはずであり、つまり体積を持っている。知っているはず。

2024年1月21日 千年後の空気を吸って吐く、味わう、少し泣く

 日曜日、雨のち晴れ。夜、眠れない。全てが恐ろしい。家に帰りたいがもう家にいるので家に帰ることができない。朝方に眠り、昼に起きる。昼に友人2名と会う。雨が降っているので犬と散歩しなくても罪悪感がない。あれだけ楽しみにされると連れてかないと(私が)悲しくなってしまう。それなりに有名な公園、有料施設に行く。しかし無名の公園は存在しない。それは未開拓の原野だ。降雨のためなのか、施設のポテンシャルなのか、殆ど人間がいない。全員セルに吸収されました。展示を見て食事をして、駅近くの喫茶店でアイスコーヒーを啜って解散。車にガソリンを入れたらガソリンタンクのカバーが壊れて阿呆ほど焦った。自宅で直す。犬が待っており、犬と少し寝る。どうせまた明日から何もろくなことがない日々が始まる。千年後の公園の写真を載せておく。私たちはプラスチック文明と呼ばれることになるのだろうか。
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2024年1月20日 すべての男は消耗品であると消耗品が言った

 土曜日、曇りのち雨。犬と外に出る予定がなくなった。だいたい犬と寝ていた。ドイツの犬のカイロプラクティック施術動画を見ていた。あとジョジョですね。編集はされているが、それにしても犬は痛みに強く、そして飼い主ではないにせよ、何かプラスのことをしてくれた人間というのが判別できているのがわかるような動画だった。もう仕事を辞めようと思った。この思考に飛躍はないが、そう、思考に飛躍などありえないのだが、他人からは飛躍にしか見えないだろう。昨夜は村上龍の『すべての男は消耗品である。』について、書いていたのだが、下書きが全て消えてしまい、何もやる気がなくなった。別に書評を書こうと思っていたわけではない。何かノートを蓄積していこうかなと思っていただけだ。アウトプットされない思考は意識の毒だからだ。

 私があのエッセイを、ちょうど13巻まで読んで思ったのは、何故こんなにも本文中にエクスキューズが多いのかということだった。リーマン・ショック前後、小泉政権の誕生あたりから、特に増えるような気がする。そしてそれは『すべての男は消耗品である。』というタイトルからの解離とパラレルである。そもそも、このエッセイは恋愛論やセックスについての連載エッセイだったのだが、徐々に、例えば『半島を出よ』や『共生虫』を刊行する頃にさしかかり、段々と政治・経済についての言及が増え、ニュース・コメンタリー・エッセイのようになっていく。そしてエクスキューズが増える。ところで、エクスキューズと私が言っているのは、村上龍が例えば小泉政権の政策について書いたあとで、私は規制緩和論者や新自由主義者ではなく、ただ、(例えば日本経済が低成長になり、徴税して分配できるパイが減っているという)「現実」についてどう考えるかを考えているだけであるといった、政策論争の類に自分はコミットしておらず、ただ問題の所在を明確にしたいだけだという、エッセイ中に繰り返される((Kindle版で『誤解』と検索すると一目瞭然である))説明のことである。私は既にタイトルからの解離とパラレルだと言ったが、タイトルは「すべての男」であり、そこに村上龍自身を含み、そして村上龍は消耗品の一つとして書き、消耗品としてその文章はあった。しかし社会、経済、政治といったものを分析するということになれば、少なくとも、その分析者自身は社会、経済、政治の内部にはいないということにしなくてはならない。そうでなければ、政策論争にコミットするのでなく、問題を明確化するだけだという「客観的」な立場は破綻してしまう。確か福田和也が『共生虫』を説教臭いとか何とか批判していたはずだが、その説教臭さは、恐らくは、社会の外部にあるかのような文体にあるのかも知れない。もちろん、私は「問題を明確にしたいだけ」であり、エッセイに「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」を求めたりはせず、この連載もKindleの合本版で一気に読むほど面白いと思ったが、分析することの生産性がお前は何処から話してんねんの一言で消滅してしまうような、エッセイのような分析が氾濫しているように思えてならないため、村上龍の、小説の後書きに「リュウ」と署名して江藤淳にボロクソに批判され、今度は『共生虫』で江藤淳の弟子の福田和也にボロクソに批判され、そしてカンブリア宮殿で経営者と対談するというキャリアに、物を語ることの困難を確認するだけである。村上龍も、今日の俗流マルクス主義者のように「すべての現象は経済である。」と言えていれば、もう少し楽だったのかも知れない。とはいえ、村上龍は頭が良すぎたのであり、そして何より小説家であった。


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2024年1月17日 何も言いたくない時は何も言いたくないんだよと言う気力すらない

 水曜日。晴れ。寒い。寒すぎてキレそう。職場に(私にとって)コミュニケーションが難しい人がいて、事故か何かで死んでくれたらコミュニケーションが難しいという感情もコミュニケーションが難しいから事故か何かで死んで欲しいという願望も消えるので事故か何かで死んでくれないだろうかと、換気扇が壊れているため窓が全開の職場のトイレで考えたりする。それというのは、上司がその人とのコミュニケーションを円滑にする方法をわざわざ助言しにきたからで、客観的にも明確に我々は、(あるいは私が)、コミュニケーションに困難を抱えているのがはっきりとしているのだなということがわかったからだ。正直に言うが、私が悪い。もう会社を辞めよう。

fさま、わしさまの日記記事コメントへの返信

 f さま

存在の耐えられない軽さに出てくる犬を思い出しました。

 コメントありがとうございます。コメントの時間を確認したら「一年前」とありました。遅くなりまして、申し訳ありません。

 私の日記から犬が重大な意味を持つ小説を想起したとのことで、まことに嬉しく思います。

 私はこのように思っております。すなわち、人による人の統治よりも犬による人の統治のほうが望ましいということです。

 

 

わし さま

他律さんはIT業界で働いてるから鬱ぽくなっているのですか❓🧐

ITは鬱が多いと聞きますがほんとうなのでしょうか・・・ 

 2022年7月14日の日記記事へのコメントを2024年の現在にいただきました。ありがとうございます。

 業界ではなく、恐らく人の世で生きているから「鬱ぽくなっている」のだと思います。

 こう考えてください。つまり、これほどまでに邪悪な社会では、鬱という(バイアスがかかっているとしばしば言われる)状態のほうが「自然」であると。あるいは、こう言ってもよいでしょう。シェルショックで塹壕から飛び出そうとする新兵よりも、砲弾が飛び交う場所に若者を送る社会が治療されるべきである。